人生には青写真があると言われています。
私の人生の棚卸を少年時代・20代・30代・
40代・50代・60代に
分けて書いていきたいと思います。
父は、昭和戦争で最後の1年を
満州に行ってきたようです。
物資もあまりなく、マイナスの温度の中で
寒さに凍える辛さを語っていました。
何かあると耳にタコができるくらい
聞かされていました。
戦後は、物もお金もない時代でしたので、
父は当時左官いわゆる壁塗りのことですが、
そんな仕事をしていたそうです。
当然今のように車も携帯のない時代ですから、
仕事をもらうのに歩きで御用聞きでしたし、
最初は道具を担いで現場に行っていたようです。
その後しばらくして自転車を購入し、
リヤカーを引っ張って仕事に行くようになりました。
私が生まれた当時は、
お金もなくその日暮らしがやっとだった聞きました。
家も当然はあばら家でしたし、
細々と母が農業をして何とか自分たちの食べるものを
作るだけだけでも大変でした。
その頃は農薬も当然なくて、
自然の肥料を作って畑仕事を
するわけですから大変でした。
母によると、1歳頃までは、
いつも籠の中に入れられて
ほったらかしだったと聞きました。
父と母が田んぼや畑仕事する時は、
私が勝手に遊びに行かないよう、いつも近くで
おとなしくしているように言われて育ちました。
生きるのに精一杯な時代でしたから
仕方がないことですが・・・。
小学生になった頃から家の手伝いを
するようになりました。
お風呂に入るのにその当時は、
いわゆる五右衛門風呂の時代ですから、
薪が必要で、薪は山から調達し乾燥したものを
使用し、火をつけるのに重宝する杉の木と枯れ木を
裏山に拾いに行っていました。
お風呂を沸かすのも当然私の仕事でした。
今ではあまり見かけなくなりましたが、
徳用マッチで火をつけていました。
こういう状況でしたので、
父と遊んでもらった記憶は全くありませんでした。
父といる時はほとんど家の事を一緒にするときでしたから。
その頃は、父は職人気質で気難しい人でしたから
何かあるといつも怒られていました。
そんな時いつも助けてくれるのは母でした。
二つ下の妹がいるのですが、
子育ては母にまかせっきりでしたので、
頼れる祖父や祖母はすでに他界していて
頼れる人がいなくて、母も大変苦労していました。
なにしろ明日食べるものがないのですから、
どうしようかと不安な日々を過ごしていたのですから・・。
2歳下の妹は気が強かったので、
よくケンカをしていましたが、
お風呂に入っている時妹と喧嘩になり、
父が激怒し私は裸のまま外へ連れ出され、
近くの電柱に縛られました。
その当時の電柱は、木製で腐食防止のために
コールタールが塗られていましたので、
においもきつく背中にべったりついて気持ち悪く、
周りは真っ暗で怖くて泣き叫んでいしました。
どの位放置されていたかは記憶にないのですが、
子供心にも父の言う事は絶対で、
逆らってはいけない怖い存在であると、
この時心に焼き付きました。