最近友人に、「スピリチュアルライフコーチを始めたんだ」と言ったら、
「え、スピリチュアル、宗教じゃないの?」と聞かれました。
「スピリチュアル」について、
あまり知識を持ち合わせていない人にとっては、
「宗教」の様に見られてしまう話だと思いますが。
「スピリチュアル」って「宗教」と同じ?
違いは、と思われてる人の多くが、
霊的な内容もあり、高級霊や高次元の存在など、
まるで神々の存在について、語っている場合もあるため、
「宗教」に見られてしまう話などもあるかもしれません。
結論から言うと、「スピリチュアル」は、
「宗教」と言えば「宗教」であり、
「宗教」で無いと言えば、「宗教」ではありません。
答えになっていませんが、これから話す内容を言えば、
理解されるのではないでしょうか。
まず先に、「スピリチュアル」が「宗教」と同じ理由です。
そもそも「宗教」は、組織内において、同じ価値感を共有し合い、
道徳によって、健全な人間社会を作る目的があります。
現在は、法律によって、成り立っていますが、
道徳による健全な心を養う法律はありません。
例えば、子供のいじめ問題、
「宗教」に対して信仰心がある人であれば、
「宗教」による抑制力によっていじめを起こすことに
罪悪感を感じる場合もあるはずです。
「スピリチュア」ルの考えも同じく、
自然社会の健全なあり方を求める内容であり、
霊格を高める考え方や精神性を高める価値感、
人の価値感はそれぞれであるとするならば、
「スピリチュアル」は「宗教」と同じ話になります。
極端な話、個人的な人生について、
好きなように生きて何が悪いと思われてる人もいるはずです。
他者を省みず、自然を崩壊させたり、犯罪を起こしたり、
社会に混乱を起こしたりなど、
「宗教」の価値感に相反する内容に対して、
その人にとっては自分自身の欲求を満たす正しい内容だと
思い込む人も現れやすくなるはずです。
そのような世界はまさに、北斗の拳に現れる世紀末の姿でもあり、
とても健全な社会だとは思われないのではないでしょうか。
「スピリチュアル」における「宗教」との違いは、
「スピリチュアル」に携わる人の多くが、
この様に思われているのやないでしょうか?
「宗教」との違いは、特定の神を崇める内容ではありません。
「スピリチュアル」には、道徳的な価値感がありますが、
特定の儀式を強要するものではありません。
例えば、毎朝、お祈りをしたり、
特定の場所に足を運ぶような内容です。
何よりも「スピリチュアル」と「宗教」との大きな違いは、
他人に対して価値感を押し付ける内容ではなく、
「スピリチュアル」に興味のある人の多くが、
自らの心の衝動的な気持ちの中で、
「スピリチュアル」に関心を持ち合わせています。
また、「スピリチュアル」は、
組織によって成り立っている訳ではないため、
「宗教」で見られるような権威なども存在しません。
体を動かせば、体に良い内容と同じく、
「スピリチュアル」の考えは、
心に良い内容でもあり、私達も自然の産物であれば、
自然の法則に則った話でもあるのです。
例えば、「スピリチュアル」の考えの中では、
他者に対する「愛」を大切にします。
困っている人が、誰からも手助けしてもらえなければ、
その人の心は曇り、社会に不満を抱え、
暴力的な行動を起こしてしまうかもしれません。
「スピリチュアル」に対する価値感について、
理解が無く、興味がない人にとっては、
「宗教」に見られる理由も理解できます。
自分と違った価値感が、広がれば、
自分の存在感を失う驚異も現れやすくなり、
そのような存在に近い知識として、
「宗教」と判断してしまう場合もあるでしょう。
特に「スピリチュアル」は、目で見える内容でないため、
興味の無い人にとっては確認しづらく、
「宗教」と受け止められやすくもなるはずです。
「スピリチュアル」に関わらず、
この心理状態は誰しもが持ち合わせているものであり、
例えば、スキップしながら歩くのが良いと広まれば、
私自身も、「宗教」的な内容だと判断してしまうかもしれません。
「スピリチュアル」と「宗教」は、
道徳的な意味で同じだと言いましたが、
霊的な内容においても同じ目的が隠されている場合もあります。
「スピリチュアル」の普及に影響を強く与えた、
シルバーバーチの霊訓には、このような話があります。
第一次世界大戦の頃は、現実主義者が割りと多く存在しており、
霊的な内容を認めない人が多くいました。
戦で亡くなった人は、自分自身の死を自覚できず、
多くの魂が浮遊霊になったのです。
多くの高級霊は、浮遊霊になった魂を
あの世へ連れて帰るのにとても苦労したそうです。
高級霊と聞けば、力強い力で強制的に連れて帰ることが
出来るかと思われがちですが、
亡くなった人は体を失っているものであり、
あの世は心の世界であるため、
強制的に連れて帰ることができないのです。
亡くなった人の魂は、自分自身で悟らなければならず、
高級霊が優しく悟らせる必要性もあるのです。
第一次世界大戦の後は、霊的な世界を知ってもらう目的として、
霊能力者を使い、テーブルなどを動かしたりするなどの
サイキックパフォーマンスが割と多く現れました。
日本でも似たような話に、鎌倉時代の話があります。
当時の仏教は、皇族や知識人など、
ごく一部だけの人だけが独占していた内容でもありました。
飢餓が広がり、多くの民衆が亡くなり、
多くの浮遊霊を生み出したのです。
そこで現れたのが親鸞であり、仏教の複雑な知識は、
それほど大きな価値はなく、霊的な世界を知るだけで十分であるとして、
念仏を唱えれば極楽浄土に旅立てる布教を行ったのです。
当時としては、無学の人に霊的な世界を知ってもらう効果
として最適だったかもしれません。
戦国時代は、死を恐れず戦をする、一向宗を生み出すことにもなり、
生きる目的の価値を見失ってた人もいるでしょう。
「スピリチュアル」の考え方の中にも、
この「宗教」と同じ、霊的な世界を知ってもらい、
浮遊霊にならない目的が含まれてる場合もあります。
「宗教」に興味がなく、「スピリチュアル」にも興味がなく、
自分の欲求を満たすだけに価値を置いてる現実主義者の中には、
別に浮遊霊になっても構わないと思っている人もいるかもしません。
水の流れが止まると、腐る話もあり、血液の流れが止まれば、
体を壊す原因にもなり、精神の流れが滞るのは、
あまり望ましく無い話でもあるのです。
世の中に浮遊霊が数多く現れれば、憑依など生きてる人
にも悪い影響を与える原因にもなりかねません。
高級霊のいる世界からすれば、霊感の高い人を使って、
現世に良い影響を与えにくくなり、
浮遊霊を排除したい気持ちもわかるのではないでしょうか。
生きている人でも、例えば、スポーツの応援で、
目の前に誰かが立ち上がる邪魔をすれば、
その人を排除したい気持ちも現れるはずです。
世の中は、自分中心で世界が回っているのではなく、
多くの人が支え合う中で世界は回っています。
「スピリチャル」の考え方も同じ認識であり、
価値に気づかない人でも、
多少は存在意義について理解される話でもあるでしょう。
(HatenaBlogより引用)
私の結論としては、
指導者が外にあるか内にあるか だという事です。
宗教は、絶対的な指導者は外の存在です。
しかし、スピリチュアルの指導者は内にあり、
それは本人が担っています。
おわかりいただけましたでしょうか?